子どもの頃は、人の話を聞けと何度も怒られた。大人になって同じ相手と話してみると、聞いていないのは向こうのほうだった。説明すれば別の意味に取られ、同じ質問が三周目に入る。あのときの説教は何だったのか、という気持ちになる。
そう話していた男性がいた。この徒労には、はっきりした理由がある。
聞かないという一語の中には、性質のまるで違う三つが混ざっている。
- 音として届いていない
- 届いているが、処理が追いつかない
- 分かったうえで、受け取ることを拒んでいる
この三つは対処法が正反対になる。どれなのかを見誤ると、丁寧に説明するほど関係が悪くなる。
聞いていないのではなく、聞こえていない
高い音から落ちるので、子音が消える
加齢性の難聴は、高い周波数から先に失われる。日本語で高い成分を持つのは子音のほうだ。母音は低いので残る。
結果として、話しかけられていることは分かるのに、何を言われたかだけが分からないという状態になる。佐藤さんと加藤さん、七時と一時が区別できない。単語の骨格だけが届いて、輪郭が消えている。
実家に帰るたび父親と会話が噛み合わなくなり、最初は歳だから仕方ないと思っていた人がいた。あるとき気づいたそうだ。聞こえていない父の側からすると、こちらが返事をしていても、無視されているように感じているのではないか。それ以来、話し方に注意を払うようになったという。
聞かない人だと思われている側が、実は自分こそ無視されていると感じている。この行き違いが、家庭の中で何年も放置される。
大声はかえって届かない
通じないと分かると、人は声を張り上げる。ところが加齢性の難聴には、小さい音は聞こえないのに、大きい音は必要以上に響いて割れて聞こえるという性質がある。
だから怒鳴るほど音は歪み、内容は遠のく。怒られているという感情だけが正確に伝わる。関係を壊す最短経路になっている。
効くのは音量ではなく、高さと速度だ。声を低めに落とし、間を置いて話す。正面に回り、口元が見える位置に立つ。それだけで通じ方が変わる相手は多い。
聞こえの低下は、放置すると会話量そのものが減る。人と話す機会が減れば、頭を使う時間も減る。国際的な専門家の委員会は、難聴を認知症の予防可能な危険因子の一つとして挙げている。補聴器の話は、耳だけの話ではなくなる。
届いているが、処理が追いつかない
一度に複数を言われると混ざる
音として届いていても、同時に複数の指示を保持する力は年齢とともに落ちる。買い物のついでに郵便を出して、帰りに薬局に寄って、という三段構えは、途中で崩れる。
デジタル機器の説明が通らないのも、ここが大きい。画面を開いて、右上を押して、次の画面で下にスクロールして、という手順は、一つずつ見れば簡単でも、束ねた瞬間に処理量が跳ね上がる。教える側は簡単なことを言っているつもりでいるので、なぜ分からないのかが分からない。
何度説明しても同じことを聞かれるのは、記憶に定着する前に次の情報が入ってきているからでもある。伝える量を一度に一つへ絞ると、途端に通ることがある。あれこれ言うと頭の中が混乱する、という現場の実感は正確な観察だ。
頷きは理解の合図ではない
うんうんと頷いているのに、理解していない場合は多い。聞き返すのが恥ずかしい人ほど、頷きで場をやり過ごす。聞こえの低下を隠している人は、この動作が習慣になっている。
だから、分かったかどうかを頷きで判断しない。確かめるなら、いまの話をどうするか本人に言ってもらう。復唱してもらえば、どこで落ちたかが分かる。
説明したことが勝手に別の方向に解釈されて返ってくるのも、同じ根から出ている。全部は届いていないので、届いた断片から本人なりの筋書きが作られる。悪意ではなく、穴埋めの結果になる。
受け取ることを拒んでいる場合
自立という言葉で拒まれるとき
三つ目が、いちばん手強い。清潔の管理も自分では追いつかなくなっているのに、自立していると主張して助言を退ける。転倒の危険があると言っても、まだ大丈夫だと返される。
拒んでいるのは助言の中身ではない。決める権利を手放すことのほうだ。年齢を重ねるにつれ、自分で決められる領域は静かに削られていく。運転、財布、住む場所、通院の頻度。次々と誰かの管理下に移っていく中で、最後に残った決定権を守ろうとして、言うことを聞かない形になる。
だから、正論の精度を上げても効かない。正しさで押すほど、決定権を奪う圧として受け取られる。
説得されるほど固くなる
人は、選択を強く迫られるほど、反対方向に踏ん張る性質を持っている。子どもでも大人でも同じで、高齢になると一段はっきり出る。
薬をやめてほしいと家族が言うのに対し、ボケてもいいから眠れないほうが辛い、と返した人がいた。昼間の仕事もないのだから眠れなくても構わないだろう、と家族は思う。ただ本人にとって、夜眠れない時間の長さは、こちらが想像するのとは別の重さを持っている。
ここで押し合っても勝ち負けにしかならない。順番を変えたほうがいい。まず本人が困っていることを先に片付ける。眠れない苦しさを認めたうえで、別の方法を医師と一緒に探す。相手の困りごとに味方すると、こちらの提案が敵ではなくなる。
届く伝え方に変える
やることは決まっている。
- 正面に回り、口元が見える位置に立つ
- 声を低めにして、速度を落とす。音量は上げすぎない
- 一度に伝えるのは一つだけ
- 大事なことは紙に書いて残す
- 分かったかは頷きではなく、本人の言葉で確かめる
位置と声の高さを先に変える
背後や隣から話しかけない。テレビや水道の音を止めてから始める。雑音がある場所では、聞き取りの落ち込みが健聴の人よりずっと大きくなる。
こちらが女性で高い声質なら、意識して低く話す。早口を直すだけで通じる相手もいる。
一度に一つ、紙に残す
口頭は消える。数字や日付、手順は書いて渡す。スマートフォンの操作なら、画面の写真に手書きで丸を付けたものを一枚作っておくと、次に呼ばれる回数が減る。
一度に一つという原則は、教える側の忍耐を要求する。ただ、三つ言って三つとも落ちるより、一つ言って一つ残るほうが早い。
例えを相手の土俵に移す
デジタルが苦手な人にデータの復旧を求められて、荼毘に付した遺体を生き返らせろと言っているようなものだ、と説明した人がいた。高齢の相手には病気や体の例えが通じやすいから、という工夫だった。
伝わらないのは、こちらの語彙で説明しているからという場合がある。相手が長年扱ってきた領域の言葉に翻訳すると、急に通る。畑をやってきた人には作物の話で、機械を扱ってきた人には道具の話で説明する。この置き換えは、どんな内容でも効く。
介護の現場が突きつける問い
施設の職員が、認知症の利用者について相談してきた。こっちの言うことを聞いてくれないので業務が終わらない、と。
相談を受けた側は、こう問い返したという。自分の言う通りにしてくれないと困るから、黙って言うことを聞いてくれる、と誰かに言われたら、納得して従えるか。職員は、できない、と答えた。
自分にできないことを、認知機能の落ちた相手に求めていた。この構図は、家庭でも職場でも同じ形で起きている。
聞いてもらえない側と、聞かない側は、たいてい両方が相手にそう感じている。こちらが説明しているとき、相手の側は自分の話が一度も聞かれていないと思っていることがある。順番として、先に相手の言い分を最後まで聞く。それだけで通る場合がある。
これは甘やかしではない。相手の話を聞かずに指示だけ出す関係が、そもそも機能しないという話になる。
譲ってはいけない三つの場面
とはいえ、何でも本人の意思に任せてよいわけではない。線を引く場面は三つある。
一つ目は、命と体に直結すること。運転、火の使用、階段や浴室の転倒。ここは押し引きではなく、環境のほうを変える。説得より、コンロを電気にする、手すりを付ける、といった物理的な手当のほうが確実に効く。
二つ目は、薬に関する判断だ。飲むのをやめる、量を減らす、別のものに替える。家族が独断で決めるのは危険で、種類によっては急に中断すると強い反動が出る。主治医か薬剤師に相談する。本人が家族の言葉を受け付けないときこそ、第三者の口から言ってもらうほうが通る。
三つ目は、変化が急なとき。今までできていたことが数週間でできなくなった、話の筋が飛ぶようになった、日付や場所が合わなくなった。性格や意固地さの話ではなく、体の問題として扱う。かかりつけ医に相談し、地域包括支援センターに連絡すれば、家族だけで抱えずに済む道が開く。
ずっとこのままなのかと思うと悲しくなる、と話していた家族がいた。その悲しさは、諦めるべきものではなく、専門職に渡していい種類の重さになる。苛立ちの多くは、たった一人で解こうとしていることから生まれている。
高齢者が話を聞かないのは認知症のせいですか
必ずしもそうではありません。音として届いていない難聴、届いても同時に複数を処理できない状態、内容を理解したうえで決定権を守るために拒んでいる場合の三つが混ざっています。今までできていたことが数週間で崩れた、話の筋が飛ぶ、日付や場所が合わないといった変化が重なる場合は、かかりつけ医に相談してください。
耳が遠い人には大声で話すべきですか
音量を上げるのは逆効果になることがあります。加齢性の難聴には、小さい音は聞こえないのに大きい音は割れて響く性質があり、怒鳴るほど内容が歪みます。正面に回って口元が見える位置に立ち、声を低めにして速度を落とし、テレビなどの雑音を止めてから話してください。
何度説明しても同じことを聞かれるのはなぜですか
記憶に定着する前に次の情報が入ってきているためで、一度に複数の内容を伝えると特に起きやすくなります。伝える内容を一つに絞り、数字や手順は紙に書いて残してください。口頭は消えるので、次に呼ばれる回数を減らしたい場合ほど書いたものを渡すほうが早く済みます。
頷いているのに理解していないのはなぜですか
聞き返すことを恥ずかしく感じる人ほど、頷きで場をやり過ごす習慣がついているためです。理解したかどうかを頷きで判断せず、これからどうするかを本人の言葉で言ってもらってください。復唱してもらうと、どこで内容が落ちたかが分かります。
危険なことをやめてくれないとき、どう説得すればいいですか
正論を強めるほど、決定権を奪われる圧として受け取られて固くなります。説得より環境を変えるほうが確実で、火の心配ならコンロを電気にする、転倒なら手すりを付けるといった手当が有効です。本人が困っていることを先に一緒に解決すると、こちらの提案が受け入れられやすくなります。
薬をやめると言い張る親にどう対応すればいいですか
家族が独断で服薬の中止や減量を決めるのは避けてください。種類によっては急に中断すると強い反動が出るため、主治医か薬剤師に相談したうえで判断します。本人が家族の言葉を受け付けない場合は、医師や薬剤師から直接説明してもらうほうが通りやすくなります。
認知症の人に指示が通らないときはどうすればいいですか
黙って言うことを聞いてほしいと誰かに言われて自分が納得できるかを考えると、求めていることの無理が見えます。指示を通す前に相手の言い分を最後まで聞き、否定せずに内容へ乗ったうえで場面を変えてください。業務や家事の段取りを、相手の反応に合わせて組み直すほうが結果的に早く進みます。
補聴器を勧めても拒否されます
聞こえの低下を認めることが老いを認めることになると感じて、拒む人が多くいます。補聴器の話から入らず、耳鼻科で聞こえの検査を受けるところまでに目標を下げてください。検査の数値を医師から示されると、家族の言葉より受け入れられやすくなります。

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