死生観とは何か|意味と、それが書き換わる四つの瞬間

死生観という言葉を調べる人は、たいてい何かがあった直後にいる。誰かを見送った、自分が病気をした、あるいは深夜にふと自分がいなくなる日のことを考えてしまった。

死生観とは、生きることと死ぬことをどう捉えるかについての、その人なりの考え方と態度を指す。死だけを扱う言葉ではなく、死をどう置くかによって決まる生き方まで含んでいる。

この一語の中には、いくつかの要素が同時に入っている。

  • 死をどういう出来事として理解しているか
  • 死んだあとに何かがあると考えているか
  • 残された時間をどう使うと決めているか
  • 遺される人に何を残したいか

そして、この四つは固定されていない。人生の出来事のたびに書き換わっていく。

目次

死生観とは、死の見方であり生の区切り方

言葉としての意味

生死観と書かれることもあるが、意味はほぼ同じになる。学問としては死生学という分野があり、医学、宗教学、心理学、社会学にまたがって死を扱う。看護や緩和ケアの教育では基礎科目として置かれていることも多い。

宗教が答えを用意している場合もある。輪廻を前提にするか、一度きりの生と考えるか、先祖のいる場所へ帰ると考えるか。ただ、宗教に属していない人にも死生観はある。無いのではなく、言葉になっていないだけになる。

死をどう置くかで、今日の時間の使い方が変わる

40代の男性が、若い頃は死を遠いものだと思っていた、と話していた。父親という立場になり、家族の死に触れる機会が増えると、見え方が変わったという。

ここが要点になる。死生観は死についての意見ではなく、いまの時間をどう区切るかの前提として働いている。定年まではこれをやる、子どもが独立したらこうする、という計画は、いずれ終わりが来るという前提の上に立っている。その前提の形が変われば、計画も変わる。

死をどう死ぬかを考えることは、どう生きるかを考えることと同じ作業になる。

死生観が書き換わる四つの瞬間

身近な人を失ったとき

血縁者の死に立ち会ったとき、心身を壊したとき、テレビで見ていた人の訃報を聞いたとき。こうした場面で、人は考えざるを得なくなる。

このまま何事もなく生きていけば、自分の親や妻に対しても同じ場面に向き合わなければならない。そう思うと不安になる夜がある、と語る人がいた。想像の中で先に一度経験してしまうのが、この時期の特徴になる。

自分の身体が壊れたとき

脳出血を起こし、左半身に麻痺が残った人は、死生観が大きく変わったと話す。以前借りて読んだ本を、買ったことを忘れて買い直し、再読したところ、感じ方がまるで違っていた。死にかけて障害を負ったことで、同じ文章から受け取るものが入れ替わっていた。

命に限りがあると頭で知っていることと、身体で知ることは別物だ。後者を経験すると、日常の景色の解像度が変わる。

余命が数字で示されたとき

死そのものより、余命を具体的な数字で示されることのほうがきつい、と感じる人がいる。理由も明快だった。終わりの時期が確定すると、未来が可能性から残り時間に変わってしまうからだ。

この言い換えは、死生観の核心を突いている。人は普段、未来を長さではなく可能性として扱っている。そこに数字が入った瞬間、同じ時間が別の性質のものになる。

治療の選択肢に死の可能性が含まれる場面に立たされた人もいる。毎日がつらくても、やりたいことがあり、仲間がいる。全部が無くなるかもしれない選択は簡単には選べない。そう気づいたとき、自分がまだ手離したくないものを持っていることが、はっきり分かったという。

同じ作品が違って見えたとき

子どもの頃に読んだ物語を読み返すと、以前は理屈にならない悲しさだけを感じていた場面が、冷静さと深い余韻を残すものに変わっていた。同じ作品でも、年齢や立場によってまるで違う印象を与える。

瞑想中に意識が遠くなり、自分の身体を少し上から見下ろすような感覚を経験した人もいる。その瞬間、身体は借り物なのだと思ったという。それ以来、死に対する感覚が変わり、怖いというより、このタイミングか、と受け止めるようになった。

大きな出来事だけが死生観を動かすわけではない。読み返し、思い出し、静かな時間の中でも動く。

日本人が最期に重視していること

長生きを挙げた人は6%だった

厚生労働省が約5年ごとに行っている調査から、はっきりした傾向が見える。どこで最期を迎えたいかを考える際に重要だと思うことを尋ねたところ、一般国民の回答で最も多かったのは家族等の負担にならないことで71.6%だった。体や心の苦痛なく過ごせることが60.2%、経済的な負担が少ないことが55.9%と続く。一方、可能な限り長生きすることを挙げた人は6.1%にとどまった。

長く生きることより、他者に負担をかけないことを優先する。この傾向は、日本で語られる死生観の中身をよく表している。

自分が先にいなくなったとき、関わってくれた人に深い傷を残したくない。その思いが命綱になることもある、と話す人がいた。誰にも傷を残さずに去ることは難しい。それでも、いま関わっている人には自分より長生きしてほしいと願う。

考えたことがあるのは半数、話したことがあるのは3割

同じ調査には、行動との落差も表れている。

  • 人生の最終段階における医療やケアの希望について考えたことがある一般国民は51.9%
  • 家族や医療介護の従事者と詳しく話し合っている人は1.5%、一応話し合っている人が28.4%、話し合ったことはないが68.6%
  • 話し合ったことがない理由の最多は、話し合うきっかけがなかったからで62.8%。話し合いたくないからと答えた人は2.1%しかいない

拒んでいるのではなく、入り口がないだけだと読める。話し合うきっかけとして挙げられたのは、家族等の病気が54.8%、自分の病気が47.7%、家族等の介護が40.7%。つまり、多くの人は何かが起きてからしか考え始めない。

死生観は一つではない

前提が違えば結論も違う

生かされていると感じる人、たまたま生きていると感じる人、まだ死んでいないと感じる人。それぞれが違う前提を持っている。

生かされていると考える人は、感謝や役割の中に意味を見出す。たまたま生きていると考える人は、偶然性を受け入れ、いま与えられている時間を独立したものとして扱う。まだ死んでいないと考える人は、生を猶予として捉えている。どれが正しいという話ではなく、置いている前提が違う。

身体が思うように動かなくなったとき、助けてもらうことを当然と考えるか、感謝できるか。ここでも見える世界は変わる。死生観は抽象的な思想ではなく、日々の受け取り方として現れる。

遺される側から考えるという立ち方

自分がどう死ぬかではなく、遺された人がどう生きるかから逆算する考え方もある。この立ち方をとると、準備の中身が変わる。財産の整理や連絡先の一覧といった実務が、精神的な意味を持ち始める。

震災や感染症の流行を経験した世代では、20代から終活を考える人も出ている。死を意識することが、いまを大切に扱うきっかけになる場合がある。

一方で、娯楽として死を消費するだけでは死生観は動かず、むしろ死を軽く見るようになるのではないか、という危惧の声もある。物語の中の死に触れることと、自分の死を勘定に入れることは、別の作業になる。

自分の死生観を言葉にする

人生会議という枠組み

考えを言葉にして共有する取り組みは、アドバンス・ケア・プランニングと呼ばれ、日本では人生会議という愛称がつけられている。もしものときに望む医療やケアを前もって考え、家族や医療ケアチームと繰り返し話し合って共有する営みを指す。

認知度はまだ低く、一般国民でよく知っていると答えたのは5.9%、知らないが72.1%だった。ただ、意思決定できなくなったときに備えて希望を記した書面を作っておくことには69.8%が賛成し、自分の方針を決めてほしい人を決めておくことにも69.3%が賛成している。

必要性は共有されていて、手をつける機会だけがない状態になっている。

三つの問いから始める

書式は要らない。紙に三つ書くところから始められる。

  • 自分にとって、これがなくなったら生きている意味が薄れると感じるものは何か
  • 意識がなくなったとき、自分の代わりに決めてほしい人は誰か
  • 最期の時間を、どこで、誰と過ごしたいか

一つ目は価値観、二つ目は代理決定者、三つ目は場所の希望になる。この三つが、医療の現場で最も必要とされる情報と重なる。

書いたものは一度で完成させなくていい。話し合う時期について、年齢は関係ないと答えた一般国民が28.4%と最も多かった。体調や立場が変われば内容も変わるので、書き直せる形で持っておく。

治療の選択を迫られたとき、自分がまだ手離したくないものを抱えていると気づいた人がいた。そういう発見は、決断の場面まで待たなくても、静かなときに紙の上でも起きる。

考えることが苦しくなったとき

死を考える時間が増えること自体は、異常な兆候ではない。喪失のあとや、大きな病気のあとには自然に起きる。年齢を重ねれば、考えざるを得ない場面も増える。

ただ、目安はある。眠れない日が続く、食事が喉を通らない、日中の生活が回らない。この状態が2週間以上続くなら、思索の段階ではなく休息と治療の段階に入っている。心療内科や精神科で扱う領域で、早いほど対処しやすい。

遺族向けのグリーフケア外来を持つ病院や、地域の遺族会もある。同じ経験をした人の場に一度出るだけで、抱えているものの重さが変わることがある。

これは繊細な話題なので、いま実際につらさを抱えているなら、相談先を一緒に探すこともできる。

死生観は、答えではなく現在地

死生観に完成形はない。若いときの単純な答えは、経験を重ねるほど複雑で個人的なものに変わっていく。同じ本を読み返して感想が変わったように、同じ問いに対する答えも変わり続ける。

だから、いま出せる答えが曖昧でも問題はない。重要なのは、その曖昧さを言葉にして、誰かに渡しておくことのほうだ。渡された側は、いざというときにそれを手がかりにできる。

死生観とはどういう意味ですか

生きることと死ぬことをどう捉えるかについての、その人なりの考え方と態度を指します。死をどういう出来事として理解しているか、死後に何かがあると考えているか、残された時間をどう使うと決めているか、遺される人に何を残したいか、といった要素を含みます。生死観と書かれることもあり、意味はほぼ同じです。

死生学とはどんな学問ですか

医学、宗教学、心理学、社会学にまたがって死を扱う分野で、サナトロジーとも呼ばれます。看取りやグリーフケア、終末期医療における意思決定などを研究対象とし、看護や緩和ケアの教育では基礎科目として置かれていることも多くあります。

死生観はどんなときに変わりますか

身近な人を失ったとき、自分が大きな病気や怪我をしたとき、余命を数字で示されたとき、そして時間をおいて同じ作品や記憶に触れ直したときに動きます。命に限りがあると頭で知っていることと身体で知ることは別なので、後者を経験すると受け取り方が大きく入れ替わります。年齢や立場が変われば、同じ問いへの答えも変わり続けます。

日本人はどこで最期を迎えたいと考えていますか

厚生労働省の調査では、およそ1年以内に死に至ると考えた場合、一般国民の43.8%が自宅、41.6%が医療機関、10.0%が介護施設を挙げました。ただし認知症が進んだ状態を想定した場合は、介護施設が53.1%と最も多くなります。想定する病状によって希望が変わる点が特徴です。

最期を考えるとき、日本人は何を重視していますか

最も多いのは家族等の負担にならないことで71.6%、次いで体や心の苦痛なく過ごせることが60.2%、経済的な負担が少ないことが55.9%でした。可能な限り長生きすることを挙げた人は6.1%にとどまります。長く生きることより、他者への負担の少なさを優先する傾向がはっきり表れています。

人生会議とは何ですか

もしものときに望む医療やケアについて前もって考え、家族や医療ケアチームと繰り返し話し合って共有する取り組みで、アドバンス・ケア・プランニングの愛称です。一般国民の認知度は低く、よく知っていると答えたのは5.9%ですが、希望を記した書面を作っておくことには69.8%が賛成しています。

自分の死生観をどう言葉にすればいいですか

紙に三つ書くところから始められます。これがなくなったら生きている意味が薄れると感じるものは何か、意識がなくなったとき代わりに決めてほしい人は誰か、最期の時間をどこで誰と過ごしたいか。この三つが価値観と代理決定者と場所の希望にあたり、医療の現場で最も必要とされる情報と重なります。

若いうちから死について考える意味はありますか

話し合う時期について、年齢は関係ないと答えた一般国民が28.4%と最も多くなっています。実際には、話し合ったことがない理由の62.8%がきっかけがなかったからで、話し合いたくないと答えた人は2.1%にすぎません。死を意識することが今の時間の扱い方を変えるため、何かが起きる前に考えておく意味はあります。

死について考えると怖くなります。おかしいことですか

喪失や病気のあと、あるいは年齢を重ねる中で死を考える時間が増えるのは自然なことです。ただし、眠れない、食事が取れない、日中の生活が回らないという状態が2週間以上続くなら、心療内科や精神科に相談してください。遺族向けのグリーフケア外来や地域の遺族会も、抱えているものを扱う場になります。

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この記事を書いた人

シニア向け雑誌の人生相談コーナーの担当として、これまで1000通を超える読者の手紙を読んできました。悩みの多くは、分かってくれる相手が欲しいのだと知りました。定年後の空白、体力の変化、新しい人付き合い。人生後半は終わりではなく仕切り直しの時期です。

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